A little sophia, at least sobriety. [はてなブログ出張所]

「わずかでも智を、せめて素であれ」― アルコール依存症と一生向き合うためのブログ

補: なぜアルコール依存症に?その「理由探し」は無意味である(および「アルコール依存症のアンチノミー」について)

ここまで「アルコール病棟 入院するまで」と題して、全6回に分けて数年にわたる自分のプロセスを記述してきました。自分でも書いているうちに思わず長くなってしまいましたし、思い返すだけでもけっこうキツイものがありました……。

さて、とはいえ、読まれた方はお気づきになられたかもしれませんが、上の「入院するまでの経過」のなかには、私の「心理面」ないしは「精神面」での原因/要因というものについては一切触れていません。それはたとえば、「仕事で大きな失敗をしたり、職場での人間関係に問題があり、酒に逃げた」「家族/夫婦関係がうまくいっていなかった」「親に問題があり、いわゆるアダルト・チルドレン(AC)としての側面を持っていた」といったようなものが相当します。

実際、アルコール依存症の方には、個別にこうした要因を持っているケースも多いと思います(というより、たいていの方が持っています)。かくいう私も、もちろん個別具体的に語ろうと思えば、いくらでもそうした要因や問題は抱えていました(ちなみに、こちらも問題のありすぎのオンパレードのデパート状態です、苦笑)。でも、あえて上の「入院までの振り返り」からは除外することにしました。

それは第一に、あまり具体的に書きすぎてしまうことで余計な「身バレを防ぎたい(Anonimity: 匿名性を確保したい)」という率直な理由もあります。しかしもうひとつの理由として、アルコール依存症における「酒という物質(劇薬・劇物)が持つ依存性の高さ」を強調したかったから、というものがあります。

私はわりと親しい周りの人や同僚には、「アルコール依存症で入院しました」ということをオープンに話しています。そういうと、ほぼ必ずといっていいほど聞かれるのは、「結局、何が原因だったんですか?」という質問です。これに自分は、「まあ、いろいろありますけど……。結局は、酒そのものが原因だったと思います(なので、断酒するしかないと考えています)」と答えるようにしています。そういえば、入院する前に読んだ本の1つ、コラムニスト・小田嶋隆氏の自身の経験を振り返った『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』の中にも、アルコール依存症に陥った理由について似たようなことが書いてあったような気がします。周りはそれに理由をつけたがるが、実はさしたる理由はなく、酒になんとなく溺れていってしまうのだ、というような。

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

 

第4回のまとめでも書いたように、アルコール依存症になって自分が一番この病が「手強い」と感じたのは、酒から沼のように抜け出せなくなるメカニズムでした。酒にどっぷり浸かるようになると、「連続飲酒が常態化する→体が酩酊を”通常モード”だと判断する(ホメオスタシス)→酒が抜けると離脱症状という形で様々な苦痛・不快感を与える→酒を飲むと収まるので、ますます酒から抜け出せなくなる」というフィードバック・サイクル(酒自体が原因となって酒への依存が強まるプロセス)が働きます。これはアルコール依存症という病気になってみないと(そしてその沼モードから、一時的にとはいえ「入院」という形で時間的な距離を置き、シラフ = sobriety の状態で振り返ってみないと)、なかなか理解しがたいことではないかと思います。

アルコール依存症についてよく言われる誤解としてあるのが、「要するにアル中は”意志が弱い“(酒なんて我慢できないほうがおかしい。ほどほどに飲めばいいだけだ。etc…)」という、かつての(そしていまも?)「うつ病」などの精神病に対しても共通して見られる見解です。たしかに、意志の弱さを原因にするのは非常に簡単なことです(なにしろひとことで済む!)。また、アルコール依存症になったことのない人、つまり世間における大多数を占める「普通」の人々は、そういった「意志の弱さ」を起因としたストーリーを好んで聞き出そうとします。なにより、分かりやすいからです。

実際、アルコールにどっぷり使ってしまう〈きっかけ〉として、そうした「意志の弱さ」、あるいは「自分(の意志や存在)を非常に脆弱なものにしてしまった要因」は確実にあると思います。それは、なにか大人になってからでもトラウマを受けるほどショックな偶発的トラブルによるものかもしれませんし、生まれながらの遺伝的な、あるいは生育環境から来る気質・性格の問題もあるでしょう。そして、それらが複合している場合も多いと思います。

しかしそれは認めた上で、改めて強調したいことがあります。私の場合、アルコール依存症という問題について調べ、アルコール病棟でさまざまな医師の見解や同じ入院患者の話を聞き、AAのような場で同じ当事者の仲間の話を聞いて思うのは、「その具体的な要因や経緯は、結局人それぞれだ」ということです。もちろん、ある一定の「パターン」のようなものはあります(仕事・家族・生育環境など)。しかし厳然として共通しているのは、「酒に最後は飲み込まれた(自分の意志の力ではどうにもならなくなった)」という事実であり、ここにアルコール依存症という病が抱える本質があると私は考えています。

なにもこれは私だけの考えではありません。アルコール依存症やAAについて、非常に有益な情報を数多くWeb上で発信されてきた「心の家路 ~アルコール依存症からの回復と自助グループの勧め~」の管理人である「ひいらぎ」氏のブログにも、まさにこの点について、ビッグブックを参照しながら次のような説明があります(「たったひとつの冴えないやりかた しゃべりまくるんだ・・何を?」)。「アルコホーリク(つまりアルコール依存症の人)は、アルコールに対してアレルギー体質」を持っているのだ、と。

アレルギー? ここは誰もが引っかかる言葉だと思います。少し長くなりますが、氏のブログより引用します:

少しでも医学知識を持つ人は、これを聞いて疑問を持つに違いありません。現在ではアレルギーとは「免疫反応が特定の抗原に対して過剰に起こること」を指します。依存症は免疫の病気ではありません。彼は医師なのに、医学的にとんちんかんな主張をしている、と思われるでしょう。

しかし医学用語ではなく、アレルギーという言葉が一般的な英語としてどんな意味を持っているかを調べてみましょう。それには英英辞典を使うのがよろしい。手元にあるオックスフォードのワードパワー英英辞典を引いてみると、allergy の項にはこうあります。

a medical condition that makes you ill when you eat, touch or breathe sth that dones not normally make other people ill

つまり、他の人々にとっては問題がない何かを、ある人がそれを食べたり、触れたり、吸ったりすると具合の悪い状態がもたらされることです。

花粉症の人が花粉を吸うと具合の悪い状態がもたらされる。その害は、鼻水やくしゃみや目のかゆみです。しかし、花粉症じゃない人々にとっては、花粉は何ら問題にはなりません。これがアレルギーです。

同様に、アルコホーリクが酒を飲むと具合の悪い状態がもたらされる。しかし、アルコホーリクでは無い人にとっては、アルコールは何ら問題にはなりません。シルクワース医師はこれを指してアレルギーと呼びました。

引用元:「たったひとつの冴えないやりかた しゃべりまくるんだ・・何を?」(強調、筆者) 

花粉症の比喩は、非常にわかりやすいと思います。そう、アルコール依存症はまさに花粉症と同じで、普通の人であれば普通に摂取しても問題のないアルコールに対して、何か特殊な反応を示してしまう病なのです。私の場合、それは不眠を始めとする強烈な離脱症状でしたが、AAの基本書、通称ビッグブックごと『アルコホーリクス・アノニマス』の序文に「医師の意見」を寄せているDr.シルクワースは、それを「渇望」と表現したと言います。まさに私も、離脱症状からの離脱を求めて酒を渇望し続ける沼に入り込んだわけです。 

アルコホーリクス・アノニマス

アルコホーリクス・アノニマス

 

 さらに引用を続けます:

では、その具合の悪い状態とは何か? 彼はそれを渇望と呼びました。アルコホーリクが酒を一杯飲むと、次の一杯が飲みたくなる「渇望」が沸き上がります。それによって二杯目を飲むと、どうしても三杯目が飲みたくなる・・・。こうしてアルコホーリクは酒の量をコントロールできずに飲み過ぎてしまいます。この渇望は意志の力で打ち勝つのが難しいほど強いのです。

しかしこの病気に理解のない世間一般は、アルコホーリクが酒を「飲み過ぎる」ことについて、こう思っています。アルコホーリクは、我慢しようという意志が弱い、快楽主義で心地よさを求めすぎている、酒に逃避している・・・。そういう面がないわけではないが、しかしそう思ってしまうのは病気への無理解ゆえ。誤解と偏見です。

シルクワース医師は、それはアレルギー同様の生理的現象だと述べています。花粉症の人が、鼻水やくしゃみが出るのは、意志が弱いからでしょうか? 快楽主義だからでしょうか? そんなことはありませんね。生理的現象に意志の力で打ち勝つのは難しいのです。例えば「下痢」という生理現象に意志の力で打ち勝てるでしょうか? しばらくは我慢できるかもしれませんが、いつかは堪えきれずに悲惨な結末を迎えます(意志の力で我慢しようとせずに早くトイレに行った方が良い)。

同様に意志の力で酒をコントロールする(節酒する)ことをアルコホーリクに求めるのは無理なことです。そのことを理解すると、それまでなんとか酒をコントロールして飲もうと努力してきた人も、飲酒を諦めて完全に酒を止めるしかない、と思うようになります。

もしアルコホーリクが、もう二度と酒を飲まないと決意して、それを一生続けることができたら、すばらしいことです。しかし多くのアルコホーリクが、二度と飲まないと誓い、周りの人にもそれを公言したにもかかわらず、再飲酒してしまいます。

多くの人たちが「ついうっかり」とか「魔が差した」などと表現しますが、飲み出せばいずれは渇望によって元の飲んだくれに戻ってしまうと分かっていながら、最初の一杯に手を出すのを避けられないわけです。その瞬間、私たちアルコホーリクの心は、正常な判断ができないほど不健康な状態に陥っています。つまり、狂気の瞬間が訪れてしまうわけです。

シルクワース医師はこれを指して「精神的強迫」あるいは「精神の強迫観念」と呼びました。しかしビッグブックが出版された時点ではその用語は確定していなかったようで、ビッグブックでは「最初の一杯の狂気」と呼んでいます。

普段は「もう二度と飲まない」という正常な判断ができている人なのに、長い人生のどこかで「飲む」という狂った判断をしてしまう。それを意志の力で防ぐことができない。それがこの依存症という病気の核心的な部分だというわけです。

引用元:「たったひとつの冴えないやりかた しゃべりまくるんだ・・何を?

いかがでしょうか。当のアルコール依存症である自分にとって、上の文章は非常に恐ろしい事実を突きつけているように感じます。なにしろどれだけ意志の力を強く持っていたとしても、再びスリップ(再飲酒)してしまうリスクは非常に高いということが、ここにはこれ以上ないほど明確に書かれてしまっているからです。具体的な数字は出しませんが、実際のところアルコール依存症は再発(そもそも治らないので再発という表現はおかしいのですが)、つまり再飲酒や再入院の確率が極めて高いことで知られる、超ハイリスクの病です。これはなんとしてでも断酒したいと考えている自分にとって、本当にうんざりするような客観的事実といえます。

とはいえその一方で、アルコール依存症を自認する自分にとって、これは自己責任という名の重責から解き放ってくれる、いわば「負担免除」としての効果を持っている側面もあります。つまり、アルコール依存症については、なにもかも自分のせいだと思わなくてよい、悪いのはとにかくアルコールという物質そのものと自分の体質のせいなんだ、という理由の「外部化(切断処理)」ができることで、少し気持ちが軽くなるのです。

そうはいうものの、もちろん常に葛藤はあります。アルコール依存症になったのは、もちろん誰のせいでもなく自分の責であり、完全に自己責任の問題です。そしてその結果として、めまいがするほどの膨大な迷惑を周囲にかけてきたのであり、だからこそAAのステップでも説かれているように、これから「埋め合わせ」をしていかなければならない。本当にそうだと思います。

なので、アルコール依存症での入院・退院を経た自分は、いままさに、こうした2つの思いのあいだで引き裂かれているような状態です。ひとりの自分はこう考えている:アルコール依存症になった要因は、アルコールという物質それ自体の恐ろしさにあるんだ。でももうひとりの自分は、こうも考えている:誰もがアルコール依存症になるわけではないし、なったのは自己責任そのものなんだ、と。「天使と悪魔」ではありませんが、自分の中にこうした矛盾した2つの見解が存在しているのです。

しかし、これは決して対立しあう矛盾ではないのだと思います。なぜなら、どちらもいまの自分にとっては「正しい」と思えますし、おそらくこの矛盾を抱えながら生きていくしかないのだろうとも考えています。

そしてそれは大げさな言い方に聞こえると思いますが、哲学的に表現すればアルコール依存症の「アンチノミー(二律背反)」(イマニュエル・カント)と呼べるのではないかと思うのです。矛盾しているが、どちらも正しい。これはまさに、カントの超越論的哲学(批判哲学)におけるアンチノミーと論理的には同型なのです。アルコール依存症、それは(続けて)カントの言葉をあえて誤用すれば、アルコールという「物自体の病」であると同時に、「自己責任の塊」でもある。いわばそれは解決できる問題なのではなく、むしろ人間の理性で思考・解決できる限界そのものを示している。

アルコール依存症ごときで何をいうか、と言われてしまいそうですが、自分にとっては、ようやく(極めて難解なことで知られるカント哲学のエッセンスを、この身をもって「実感」できた気がしています。