A little sophia, at least sobriety. [はてなブログ出張所]

「わずかでも智を、せめて素であれ」― アルコール依存症と一生向き合うためのブログ

補: なぜアルコール依存症に?その「理由探し」は無意味である(および「アルコール依存症のアンチノミー」について)

ここまで「アルコール病棟 入院するまで」と題して、全6回に分けて数年にわたる自分のプロセスを記述してきました。自分でも書いているうちに思わず長くなってしまいましたし、思い返すだけでもけっこうキツイものがありました……。

さて、とはいえ、読まれた方はお気づきになられたかもしれませんが、上の「入院するまでの経過」のなかには、私の「心理面」ないしは「精神面」での原因/要因というものについては一切触れていません。それはたとえば、「仕事で大きな失敗をしたり、職場での人間関係に問題があり、酒に逃げた」「家族/夫婦関係がうまくいっていなかった」「親に問題があり、いわゆるアダルト・チルドレン(AC)としての側面を持っていた」といったようなものが相当します。

実際、アルコール依存症の方には、個別にこうした要因を持っているケースも多いと思います(というより、たいていの方が持っています)。かくいう私も、もちろん個別具体的に語ろうと思えば、いくらでもそうした要因や問題は抱えていました(ちなみに、こちらも問題のありすぎのオンパレードのデパート状態です、苦笑)。でも、あえて上の「入院までの振り返り」からは除外することにしました。

それは第一に、あまり具体的に書きすぎてしまうことで余計な「身バレを防ぎたい(Anonimity: 匿名性を確保したい)」という率直な理由もあります。しかしもうひとつの理由として、アルコール依存症における「酒という物質(劇薬・劇物)が持つ依存性の高さ」を強調したかったから、というものがあります。

私はわりと親しい周りの人や同僚には、「アルコール依存症で入院しました」ということをオープンに話しています。そういうと、ほぼ必ずといっていいほど聞かれるのは、「結局、何が原因だったんですか?」という質問です。これに自分は、「まあ、いろいろありますけど……。結局は、酒そのものが原因だったと思います(なので、断酒するしかないと考えています)」と答えるようにしています。そういえば、入院する前に読んだ本の1つ、コラムニスト・小田嶋隆氏の自身の経験を振り返った『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』の中にも、アルコール依存症に陥った理由について似たようなことが書いてあったような気がします。周りはそれに理由をつけたがるが、実はさしたる理由はなく、酒になんとなく溺れていってしまうのだ、というような。

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

 

第4回のまとめでも書いたように、アルコール依存症になって自分が一番この病が「手強い」と感じたのは、酒から沼のように抜け出せなくなるメカニズムでした。酒にどっぷり浸かるようになると、「連続飲酒が常態化する→体が酩酊を”通常モード”だと判断する(ホメオスタシス)→酒が抜けると離脱症状という形で様々な苦痛・不快感を与える→酒を飲むと収まるので、ますます酒から抜け出せなくなる」というフィードバック・サイクル(酒自体が原因となって酒への依存が強まるプロセス)が働きます。これはアルコール依存症という病気になってみないと(そしてその沼モードから、一時的にとはいえ「入院」という形で時間的な距離を置き、シラフ = sobriety の状態で振り返ってみないと)、なかなか理解しがたいことではないかと思います。

アルコール依存症についてよく言われる誤解としてあるのが、「要するにアル中は”意志が弱い“(酒なんて我慢できないほうがおかしい。ほどほどに飲めばいいだけだ。etc…)」という、かつての(そしていまも?)「うつ病」などの精神病に対しても共通して見られる見解です。たしかに、意志の弱さを原因にするのは非常に簡単なことです(なにしろひとことで済む!)。また、アルコール依存症になったことのない人、つまり世間における大多数を占める「普通」の人々は、そういった「意志の弱さ」を起因としたストーリーを好んで聞き出そうとします。なにより、分かりやすいからです。

実際、アルコールにどっぷり使ってしまう〈きっかけ〉として、そうした「意志の弱さ」、あるいは「自分(の意志や存在)を非常に脆弱なものにしてしまった要因」は確実にあると思います。それは、なにか大人になってからでもトラウマを受けるほどショックな偶発的トラブルによるものかもしれませんし、生まれながらの遺伝的な、あるいは生育環境から来る気質・性格の問題もあるでしょう。そして、それらが複合している場合も多いと思います。

しかしそれは認めた上で、改めて強調したいことがあります。私の場合、アルコール依存症という問題について調べ、アルコール病棟でさまざまな医師の見解や同じ入院患者の話を聞き、AAのような場で同じ当事者の仲間の話を聞いて思うのは、「その具体的な要因や経緯は、結局人それぞれだ」ということです。もちろん、ある一定の「パターン」のようなものはあります(仕事・家族・生育環境など)。しかし厳然として共通しているのは、「酒に最後は飲み込まれた(自分の意志の力ではどうにもならなくなった)」という事実であり、ここにアルコール依存症という病が抱える本質があると私は考えています。

なにもこれは私だけの考えではありません。アルコール依存症やAAについて、非常に有益な情報を数多くWeb上で発信されてきた「心の家路 ~アルコール依存症からの回復と自助グループの勧め~」の管理人である「ひいらぎ」氏のブログにも、まさにこの点について、ビッグブックを参照しながら次のような説明があります(「たったひとつの冴えないやりかた しゃべりまくるんだ・・何を?」)。「アルコホーリク(つまりアルコール依存症の人)は、アルコールに対してアレルギー体質」を持っているのだ、と。

アレルギー? ここは誰もが引っかかる言葉だと思います。少し長くなりますが、氏のブログより引用します:

少しでも医学知識を持つ人は、これを聞いて疑問を持つに違いありません。現在ではアレルギーとは「免疫反応が特定の抗原に対して過剰に起こること」を指します。依存症は免疫の病気ではありません。彼は医師なのに、医学的にとんちんかんな主張をしている、と思われるでしょう。

しかし医学用語ではなく、アレルギーという言葉が一般的な英語としてどんな意味を持っているかを調べてみましょう。それには英英辞典を使うのがよろしい。手元にあるオックスフォードのワードパワー英英辞典を引いてみると、allergy の項にはこうあります。

a medical condition that makes you ill when you eat, touch or breathe sth that dones not normally make other people ill

つまり、他の人々にとっては問題がない何かを、ある人がそれを食べたり、触れたり、吸ったりすると具合の悪い状態がもたらされることです。

花粉症の人が花粉を吸うと具合の悪い状態がもたらされる。その害は、鼻水やくしゃみや目のかゆみです。しかし、花粉症じゃない人々にとっては、花粉は何ら問題にはなりません。これがアレルギーです。

同様に、アルコホーリクが酒を飲むと具合の悪い状態がもたらされる。しかし、アルコホーリクでは無い人にとっては、アルコールは何ら問題にはなりません。シルクワース医師はこれを指してアレルギーと呼びました。

引用元:「たったひとつの冴えないやりかた しゃべりまくるんだ・・何を?」(強調、筆者) 

花粉症の比喩は、非常にわかりやすいと思います。そう、アルコール依存症はまさに花粉症と同じで、普通の人であれば普通に摂取しても問題のないアルコールに対して、何か特殊な反応を示してしまう病なのです。私の場合、それは不眠を始めとする強烈な離脱症状でしたが、AAの基本書、通称ビッグブックごと『アルコホーリクス・アノニマス』の序文に「医師の意見」を寄せているDr.シルクワースは、それを「渇望」と表現したと言います。まさに私も、離脱症状からの離脱を求めて酒を渇望し続ける沼に入り込んだわけです。 

アルコホーリクス・アノニマス

アルコホーリクス・アノニマス

 

 さらに引用を続けます:

では、その具合の悪い状態とは何か? 彼はそれを渇望と呼びました。アルコホーリクが酒を一杯飲むと、次の一杯が飲みたくなる「渇望」が沸き上がります。それによって二杯目を飲むと、どうしても三杯目が飲みたくなる・・・。こうしてアルコホーリクは酒の量をコントロールできずに飲み過ぎてしまいます。この渇望は意志の力で打ち勝つのが難しいほど強いのです。

しかしこの病気に理解のない世間一般は、アルコホーリクが酒を「飲み過ぎる」ことについて、こう思っています。アルコホーリクは、我慢しようという意志が弱い、快楽主義で心地よさを求めすぎている、酒に逃避している・・・。そういう面がないわけではないが、しかしそう思ってしまうのは病気への無理解ゆえ。誤解と偏見です。

シルクワース医師は、それはアレルギー同様の生理的現象だと述べています。花粉症の人が、鼻水やくしゃみが出るのは、意志が弱いからでしょうか? 快楽主義だからでしょうか? そんなことはありませんね。生理的現象に意志の力で打ち勝つのは難しいのです。例えば「下痢」という生理現象に意志の力で打ち勝てるでしょうか? しばらくは我慢できるかもしれませんが、いつかは堪えきれずに悲惨な結末を迎えます(意志の力で我慢しようとせずに早くトイレに行った方が良い)。

同様に意志の力で酒をコントロールする(節酒する)ことをアルコホーリクに求めるのは無理なことです。そのことを理解すると、それまでなんとか酒をコントロールして飲もうと努力してきた人も、飲酒を諦めて完全に酒を止めるしかない、と思うようになります。

もしアルコホーリクが、もう二度と酒を飲まないと決意して、それを一生続けることができたら、すばらしいことです。しかし多くのアルコホーリクが、二度と飲まないと誓い、周りの人にもそれを公言したにもかかわらず、再飲酒してしまいます。

多くの人たちが「ついうっかり」とか「魔が差した」などと表現しますが、飲み出せばいずれは渇望によって元の飲んだくれに戻ってしまうと分かっていながら、最初の一杯に手を出すのを避けられないわけです。その瞬間、私たちアルコホーリクの心は、正常な判断ができないほど不健康な状態に陥っています。つまり、狂気の瞬間が訪れてしまうわけです。

シルクワース医師はこれを指して「精神的強迫」あるいは「精神の強迫観念」と呼びました。しかしビッグブックが出版された時点ではその用語は確定していなかったようで、ビッグブックでは「最初の一杯の狂気」と呼んでいます。

普段は「もう二度と飲まない」という正常な判断ができている人なのに、長い人生のどこかで「飲む」という狂った判断をしてしまう。それを意志の力で防ぐことができない。それがこの依存症という病気の核心的な部分だというわけです。

引用元:「たったひとつの冴えないやりかた しゃべりまくるんだ・・何を?

いかがでしょうか。当のアルコール依存症である自分にとって、上の文章は非常に恐ろしい事実を突きつけているように感じます。なにしろどれだけ意志の力を強く持っていたとしても、再びスリップ(再飲酒)してしまうリスクは非常に高いということが、ここにはこれ以上ないほど明確に書かれてしまっているからです。具体的な数字は出しませんが、実際のところアルコール依存症は再発(そもそも治らないので再発という表現はおかしいのですが)、つまり再飲酒や再入院の確率が極めて高いことで知られる、超ハイリスクの病です。これはなんとしてでも断酒したいと考えている自分にとって、本当にうんざりするような客観的事実といえます。

とはいえその一方で、アルコール依存症を自認する自分にとって、これは自己責任という名の重責から解き放ってくれる、いわば「負担免除」としての効果を持っている側面もあります。つまり、アルコール依存症については、なにもかも自分のせいだと思わなくてよい、悪いのはとにかくアルコールという物質そのものと自分の体質のせいなんだ、という理由の「外部化(切断処理)」ができることで、少し気持ちが軽くなるのです。

そうはいうものの、もちろん常に葛藤はあります。アルコール依存症になったのは、もちろん誰のせいでもなく自分の責であり、完全に自己責任の問題です。そしてその結果として、めまいがするほどの膨大な迷惑を周囲にかけてきたのであり、だからこそAAのステップでも説かれているように、これから「埋め合わせ」をしていかなければならない。本当にそうだと思います。

なので、アルコール依存症での入院・退院を経た自分は、いままさに、こうした2つの思いのあいだで引き裂かれているような状態です。ひとりの自分はこう考えている:アルコール依存症になった要因は、アルコールという物質それ自体の恐ろしさにあるんだ。でももうひとりの自分は、こうも考えている:誰もがアルコール依存症になるわけではないし、なったのは自己責任そのものなんだ、と。「天使と悪魔」ではありませんが、自分の中にこうした矛盾した2つの見解が存在しているのです。

しかし、これは決して対立しあう矛盾ではないのだと思います。なぜなら、どちらもいまの自分にとっては「正しい」と思えますし、おそらくこの矛盾を抱えながら生きていくしかないのだろうとも考えています。

そしてそれは大げさな言い方に聞こえると思いますが、哲学的に表現すればアルコール依存症の「アンチノミー(二律背反)」(イマニュエル・カント)と呼べるのではないかと思うのです。矛盾しているが、どちらも正しい。これはまさに、カントの超越論的哲学(批判哲学)におけるアンチノミーと論理的には同型なのです。アルコール依存症、それは(続けて)カントの言葉をあえて誤用すれば、アルコールという「物自体の病」であると同時に、「自己責任の塊」でもある。いわばそれは解決できる問題なのではなく、むしろ人間の理性で思考・解決できる限界そのものを示している。

アルコール依存症ごときで何をいうか、と言われてしまいそうですが、自分にとっては、ようやく(極めて難解なことで知られるカント哲学のエッセンスを、この身をもって「実感」できた気がしています。

アルコール依存症で初入院するまで(6):連続飲酒の再発と猛烈な不眠状態の到来、そして自主入院へ【敗北編】

マロリーワイス症候群での入院から約3週間後、病院にて再度血液検査を受ける日がやってきました。

このときの結果は、γ-GTP が入院時の600から200に低下していたのがまず目を引きました。自分としてはわずか3週間とはいえ、全く飲んでいない状態を維持していましたので、「えっ、まだそんなに高いのか」と驚きましたが、お医者さんは「この数値はそんなにすぐに下がるわけではないので。ただ、順調に下がってはいますね」とおっしゃいました。また、γ-GTP 以外にも問題のあった肝機能の数値は、軒並み標準程度にまで下がっていました。エコー検査でも脂肪肝以外の症状は特に見られなかったため、「このままお酒は控えて、休肝日をつくって、適度な運動をしてください」と言われました。

そう、これはこのときから数年前、人生で初めてγ-GTP が200を超えて消化器内科で再検査を受けたときと、全く同じものでした。正直自分は、「またか」と思いましたが、まだこの時点では、マロリーワイス症候群での手術と入院がトラウマになっていたので、素直にその言葉を受け止めていました。このときは完全に断酒するつもりもありませんでしたが、少なくとも以前のような連続飲酒状態には決して陥るまい、との意志を強く持っていました。

しかし、アルコール依存症は、まさに意志の力だけではどうしようもない病なのです。そのことを思い知る出来事が、ほどなくしてやってきました。

入院から一ヶ月以上が経過した日のことでした。あるきっかけで、私は再び大量にアルコールを飲んでしまう日がありました。詳細はここでは省きますが、最初は本当に、350mlのビールを1〜2缶ほど飲んで止めるつもりでした。しかし、これは自分にとって非常によくなったのですが、ちょうどバホーム・パーティのような形で、そのときにはテーブルの上にビールや缶チューハイといったお酒が大量にズラリと並んでいたのです。しかも、そのほとんどには手がつけられず、あまり減っていかない状態だったのです。こういうとき、「もったいない」「どうせ誰も飲まないなら」と自分は考えてしまいがちで、いつものくせで次々と酒のプルタブを開けていきました。

すると泥酔することはなくても、気分は大変に良くなっていきます。そのうち、先日酒の飲みすぎが原因で入院した話をしても、自分より年上の方が、顔を赤らめながら「γ-GTP なんて俺もいつも毎年200は超えてるよ!」と言います。その言葉を聞いて、正直自分は背中を押されるような気持ちがして、なんだかホッとしたことを覚えています(ちなみにその人に、もちろん悪気があったわけでは全くないですし、私も全く悪感情は抱いていません。酒好きであれば、よくする会話の1つに過ぎないからです)。

そしてこの日は、結局深夜に至るまで、大量のアルコールを飲みました。その翌朝、久しぶりの二日酔いに近い状態を迎えながら、やってはいけないことだとはわかりつつも、朝から酒を買いに走ってしまい、再び連続飲酒をしてしまいました。この日はもう丸一日、まともな状態ではありませんでした。記憶も完全にあやふやですし、あとから聞いた話では、自分でも全く覚えのない迷言を吐いていたようです。

とはいえ、このときの自分はこう考えていました。「久々にタガが外れて、飲みすぎてしまった」 ただそれだけの過失としてやり過ごし、また節酒の生活に戻るつもりでした。

しかし、もはや身体がそれを許してくれません。一度大量飲酒をしてしまうと、その酩酊感覚が忘れられない快楽として自分を捕まえに来るのです。私は再び、以前どおりの連続飲酒状態へと戻っていきました。もちろん最初こそ量は控えめに、しかしそれでも、日々着々と量は増えていきました。2ヶ月もすると、再び身体には嘔吐感が現れはじめ、またしてもうっすらと血の混じった吐瀉物を出すときもありました。

これはまずい。もちろんそう考える自分は、当然酒を止めようとします。実際、飲酒せずに寝ようとします。

しかしここで訪れたのが、今までに感じたことのない、強烈なまでの離脱症状でした。

それは自分の場合、猛烈なまでの「不眠」という形で現れました。具体的にいうと、たとえば24時間ぶっとおしで寝ることができません。やっと寝れたと思っても、2時間も寝ることができずに目が覚めてしまいます。しかも尋常ではないほどの寝汗をかいており、シーツはぐっしょりと濡れています。不快感はとても酷いものでした。幸いにして自分は、アルコール依存症離脱症状として知られる「幻覚・幻聴」こそ出ませんでしたが、寝ようと目をつむると、わけのわからないイメージが次々と襲ってきて、恐怖のあまり寝られないということはありましたから、実質的には幻覚を見ていたようなものだと思います。

そうしてまた酒を飲まずになんとか我慢し、2日目を迎えるのですが、またしても24時間近く、ずっと寝ることができません。ほとんど睡眠が取れていませんから、ベッドから起き上がって、何かをする気も起こりません。かといって、ベッドにいれば脂汗を大量にかきます。ちょうど季節は夏のことでしたが、大量の汗をかいて寒気に震えたり、実際に38度近い高熱が何日も続いたりと、もはやまともな状態ではなくなります。これらもまた離脱症状であり、典型的な自律神経の失調でした。

しかし「自律神経失調症で寝付けない」というのは分かっていても、それを治す手段をあれこれ調べたところで、「規則正しい生活をしましょう」「昼間は日光を浴びて、適度に運動をしましょう」くらいのことしか対策はわかりません。それができるくらいならば、とっくにやっています。それすらもできない状態で、どうすればいいのか。私はもう途方にくれるしかありませんでした。

正直、酒を飲んでいなくてもこんな状態では、酒に酔っているのとたいして変わらないと思いました。身体も全く使い物になりませんし、意識も常に朦朧としていて、実際外出もできないような状態に陥っていきました。

当然、こんな慢性的不眠には耐えられないと考えた私は、久しぶりに睡眠薬を処方してもらっていた心療内科を訪れ、率直に自分の状態を伝えました。しばらく通院していなかったが、大量飲酒がきっかけで吐血入院をし、離脱症状が酷く全く眠れない状態が続いている、と。だから自分は、完全な断酒を実行するために、毎日・1ヶ月分の睡眠薬をいただきたいとお願いしました。先生は私の訴えを聞き入れ、そのとおりに睡眠薬を処方してくれました。

しかし、もはや以前の睡眠薬は全く効かない身体になっていたのです。以前はあれほど熟睡できていた薬にもかかわらず、そして自分でも「寝たい」という感覚はあるにもかかわらず、「寝る」という人間にとって基本欲求の1つが全く満たされないのです。これには、本当に参りました。

こうして自分は、あっという間に連続飲酒と離脱症状のドロ沼へとはまりこんでいきました。わずか数ヶ月のうちに、自分は以前よりも心身ともにボロボロの状態へと落ち込んでいきました。酒には手を出したくない。しかし酒を飲まないと、全く寝ることができない。感情や情動も不安定になり、抑うつ感も酷くなる一方ですから、「もうこのまま死んでしまいたい」という希死念慮も出てきます。

ただ、自分は睡眠薬オーバードーズ(OD)だけはしませんでした。理由は簡単で、希死念慮はあっても、死ぬのは当然怖かったからです。結局、酒を飲んで寝るしかないことがわかると、処方してもらった睡眠薬は使うことなく、放置していました。もう、自分でもどうすればいいのか、本当に全くわからなくなっていました。

そして自分はついに、――否、「ようやく」というべきでしょう――アルコール病棟への入院を、決意することにしました。それは酒への敗北を認めることでもあり、酒をコントロールできるはずだという自分の確信を捨てることでもありました。いま考えれば、いくら「自分はアルコール依存症だという自覚があったとしても、それはあくまで「知識の上」だけのことで、心の底から自分をそうだと認めたくはなかったのです。やはりアルコール依存症は、根深い「否認の病」だと思います。

私はこうして、酒への白旗を掲げ、藁をも掴む思いで、アルコール専門の入院病棟のある病院へと向かいました。

【まとめ:自分なりに重要だと思うこと】

  • 過剰飲酒がきっかけで、たとえばマロリーワイス症候群のような(自分にとっては二度と味わいたくない)身体的外傷を負ったとしても、それは一時的に飲酒を止めるトラウマ(心理的外傷)にしかならず、飲酒を完全に止める「防波堤」にはなりえない。アルコール依存症は、一度でも偶発的なきっかけで酩酊を味わってしまうと、それを再び身体も脳も強烈に渇望してしまう
  • その結果として現れる離脱症状は、たとえ断酒期間がどれだけあったとしても(自分の場合はわずか3週間以上と短いものであったが)、極めて猛烈なものとして襲いかかってくる。離脱が酷すぎると、もはや酒を飲んでいてもいなくても、自分としてはどちらも変わらない、まさに逃げ場のない地獄状態となる
  • アルコール依存症はまさに「否認の病」である。いくら知識の上で「これは連続飲酒だ」「これは離脱症状だ」などと分かっていても、心の底から「自分は酒をコントロールすることなど全くできない」という酒への完全敗北を認めなければ、意味がない(アルコール依存症のあいだでは、しばしばこれを「底つき」と呼ばれることを後に知ることになるが、まさに言い得て妙だと思う)

アルコール依存症で初入院するまで(5):マロリーワイス症候群での吐血と、人生初の手術と入院【破綻編】

週末は連続飲酒状態で酒浸り。酒を飲んでいない平日の日中は、常に強烈な嘔吐感に襲われ、職場でも移動中でもトイレに駆け込みゲーゲーと嗚咽を繰り返す日々。平日も帰宅したら酒を飲み、離脱症状がピタリと収まるのに安堵しつつ、また寝るまで酒を飲む。朝まで寝られない時は、早朝4〜5時だろうと、罪悪感たっぷりの気分でコンビニまで酒を買い足しに行く。平日に考えていることは、早く酒にどっぷり浸れる週末が来ないかということばかり。

そんな日々が、1年近くは続いたでしょうか。

驚くことに、上のような状態が続き、自分でも「これは立派なアルコール依存症だ」という自覚はあっても、それでも自分はまだ”Under Control”、つまりコントロール可能な状態にあると思い込んでいました。

というのも最初の頃は、「このままではいけない」と、一週間程度の断酒期間や、休肝日を無理やり設けることもあり、それは成功していたからです。しかしそれもだんだんと期間が短くなり、ついにはなくなっていきました。休肝日を作るのが無理だとわかってくると、今度は酒量が無尽蔵に増えないよう、できる限りコントロールしようともしていました。もちろん酒と睡眠薬を併用することも、極力やめていました(というよりも、手持ちの睡眠薬がなくなり、心療内科に足を運ぶ元気すらなくなっていた、というのが正確なところだったと思います)。自分はどうしても酒を止めることはできない。だから、せめて飲み方をコントロールして、騙し騙し生きていくしかない、などとも考えていました。

しかし、そんな生活が長続きするはずはありません。

私の場合、その破綻は「吐血」という形で訪れました。確かあれは、いつものように連続飲酒状態だった週末のこと。その週末はついうっかり「たまには違う酒を」と考え(もうこの時点で、全く酒に対するコントロールを失っているわけですが)、普段より度数の高い泡盛を、1日で1本、2日連続で飲んでいました。さすがに泡盛は体に応えたのか、飲んでいるにもかかわらず、吐き気が出てきます。よく考えれば酔っているので当然のことなのですが、当時は「吐き気=離脱時に催すもの」だったので、酩酊時に吐くのはおかしい、などと思っていたのです。なんともまあ、今思えば狂っているとしかいいようのない状態ですね。

そして平日を迎え、酒を飲まないでいると、猛烈な離脱がまた襲ってきました。普段から吐き気には襲われていましたが、今回は自分でも全くコントロールできずに、トイレに駆け込もうとするも間に合わず、大量の胃液混じりの水を寝床で吐いてしまいました。ちょっと不謹慎なたとえかもしれませんが、ご存知の方であればかの漫☆画太郎氏のマンガの一コマのように、本当に「ゲッー!!!!」と滝のような勢いで吐いてしまったのです。

これはまずいと思った自分は、「今夜は飲まずに過ごそう」と決意します。ちなみにこうしたいわば「プチ断酒」も、当時はよく繰り返していました。というのも、2日も我慢して飲まなければ、最初こそ猛烈な離脱症状に苦しむのですが、すっかり元気になってまた飲めるようになるからです。そしてこういうときは、少しでも水分が体に入るようにと、スポーツドリンクや経口補水液のようなものを飲むようにしていました。

しかし、この時は違いました。大量の水を吐いたあと、何度も経口補水液を飲み直しますが、それでもたまらず吐いてしまいます。ついにしまいには、なんだかドス黒い、まるで「もずく」のようなものが吐瀉物に混じってきます。これはいつもと様子がおかしいぞ、と自分でも思います。

そこからは、何も吐くものがなくても、トイレに常に張り付いてしゃがみ込むような状態が続きます。二度、三度と吐くたびに、今度はピンク色の液体に、そして真っ赤な鮮血が交じるようになってきます。吐血です。これはまずい、と思いました。

実はこれ以前にも、嘔吐のときに鮮血がわずかに混じっていることはしばしばありました。何度も何度も吐くことを繰り返していたので、すでに数ヶ月前の段階から消化器内科には何度か通院し、人生で初めての胃カメラ検査も受けていました(鼻から入れる小型のタイプではなく、喉から入れる大きなタイプだったので、あまりの異物感と気持ち悪さで、軽いトラウマになりました)。幸い検査の結果、「潰瘍」などはありませんでしたが、「糜爛(びらん)」といって、胃腸の粘膜が灰色にただれて削れている箇所が多数見られ、お医者さんには「ちょっと汚いね!」と言われる程度で済んでいました。なので、それほど大事にはまだ至っていないと自分では考えていたのです。

実際、嘔吐に血が混じっていても、しばらくすれば収まっていました。少し喉の粘膜がやられただけだ。今回もそうだろう。そう思っていましたが、吐くたびに鮮血の量が増えていきます。そしてしばらく寝ようと布団の中で落ち着こうとしているのですが、離脱症状のせいで全く眠気は訪れません。そして、水すら飲んでいないのに、また吐き気が訪れます。今度はまた黒いもずく状の吐瀉物。私はそれをスマホの写真で撮って、LINEで友人たちに相談しました。すると、それは血液が胃の中で変化したものであるということを、吐血での入院経験を持つ友人から教わりました。

そこから何度か黒い吐瀉物を吐いたあと、自分は観念しました。これは立派な吐血である、と。放置していれば、ひどいことになる。それでも、いきなり救急車を呼ぶのは躊躇しました。ですので、まずは #7119 の救急相談センターのWebサイトで症状を調べました。吐血はすぐさま119番すべきである、とのことでした。それでもまだふんぎりがつかず、今度は #7119 に電話をし、症状を伝えました。救急車を呼ぶべきである、と言われました。もうここで観念した自分は、119番に症状を伝え、救急車を頼みました。

ほどなくして、救急車が自宅に来ました。吐血したとはいうものの、出血量はまだ少なく、意識ははっきりとありましたので、自分で歩いて担架に乗り、症状を伝え、近くの総合病院へと搬送されました。ついたのは夜中の24時前ころだったでしょうか。そこから、精密検査で吐血の原因を調べてもらいました。CTスキャンも受けましたが、胃の中がドロドロで何も見えない(わからない)と言われました。これは胃カメラ検査で、必要があればその場で早めに手術するしかない、とのことでした。そして自分は深夜の午前3時ころでしょうか、手術室に運ばれました。

強力な麻酔薬を打たれたようで、最初のほうは全く意識がありません。しかし、効き目は30分ほどで切れてしまうようです。おそらく2本は打たれたと思うのですが、最後のほうの約20分くらいでしょうか、このあいだは麻酔なしでの施術となり、意識は完全に戻っています。胃カメラは当然まだ飲み込んだままです。あまりにも辛くて苦しいので、看護の方たちが数人がかりで自分の身体を押さえつけての手術が続きます。

そして手術を開始したときは、施術担当の先生は2人しかいなかったはずですが、確か午前4時過ぎに手術が終わったときには、4人に増えた先生が汗だくでクタクタの姿になっていました。私もボロボロの状態になりながら、「あの、手術はどうだったのでしょうか……」と恐る恐る尋ねたところ、「それより、今日はもう寝たほうがいいよ」「そうだね……、とりあえず、もうあんた酒はやめたら?」と言われたのを、はっきりと覚えています。

そのまま私は車椅子で救急病棟に運ばれ、一晩を過ごすことになります。しかし一晩といっても、時刻はすでに5時を回っています。常にピッピッピッという大きな機械音が鳴り響く中、もちろん一睡もできずに朝、起床時間を迎えます。点滴もついた状態ですので、トイレに行くにもナースコールが必要です。私はまず、昨夜から一滴も液体を口に含んでいなかったので、猛烈に水で喉をうるおしたい渇望に駆られました。ナースからは「点滴もしているので水を飲むのは禁止」と言われていましたが、トイレの中でこっそり飲んでやろうと思っていたのです。

そして、歯磨き用にと与えられたマグカップに水を注ぎ、恐る恐る、チビリとごく少量を飲み下そうとしたところ、喉の中に文字通り焼けるような激痛が走りました。思わず、叫び声が出そうなほどでした。たとえるならば、夏の海水浴でガンガンに日焼けをしたあと、熱い風呂につかろうとした時のあの激痛に近いものがありました。

その後も一睡もできぬまま、昼前に主治医の先生がベッドへ訪れました。診断結果は、マロリーワイス症候群。繰り返してきた嘔吐によって、食道付近の粘膜がダメージを受け、そこから出血していたとのことでした(胃と違って食道は胃液が通ることを想定していないため、胃酸によるダメージを受けやすいために起こる症状なのだと説明されました)。私の場合は特に爛れがひどく、何箇所にもわたって胃カメラで「クリップ」というパチンと出血箇所を止める処置を行っていただきました。当然、しばらくは水も食事も摂ることはできないとも言われました。

そして言われたのが、血液検査の結果についてでした。「肝臓の数値がどうにも悪すぎる。あんた、どれくらい酒を飲んでいるんだい?」と。そのときは正直に、週末の2日で泡盛を2本飲んだ、といいました。しかし、それにしても数値が高すぎるとも言われました。あとでわかったことでしたが、入院時の γ-GTP 値は600を超えており、ちょうど1年ほど前には200だったところが、あっという間に3倍近くまで達していたのです。自分としては酒量をコントロールしていたつもりだったのに、全くそんなことはなかったことを痛感したのでした。

私はその後、その日の午後には救急病棟から一般病棟へと移り、人生で初めて、数日間の入院生活を送りました。離脱症状もありましたし、病室(4人部屋でした)では夜中に何度もナースコールが呼ばれるため、とても安眠できるような環境ではなく、ただただ辛かったことを覚えています。とはいえ2日目には胃カメラで術後の検査を行い、経過も良好とのことでした(このときはただ検査をしただけですので、麻酔を打たれた間にあっという間に検査は終わっており、胃カメラによる苦痛感は全くありませんでした)。そして、入院してから初めての夕食も出ました。水は飲めるようになっていましたが、食事はほとんど喉を通りませんでした。

翌日の朝食は食パンでしたが、これは普通に食べることができたことを、よく覚えています。やっとまともに食事ができた、と。それだけでも自分にとっては奇跡的なことでした。そして入院中は、毎朝担当の主治医が、スタッフ数人を引き連れてベッドまで検診にやってきます。「食事は取れましたか?」といった質問のあと、あなたの肝機能の値にやはり問題があるので、退院後に肝臓の再検査をすること、そしてそれまでは酒を控えるようにと言われました。これに対して私は、「当然です。もうこんな思いをするくらいなら、絶対に酒は飲みません」と即答しました。このときは、本当に心の底からそう思っていたのです。

実際私は、退院後、再検査までの約3週間にわたって、酒を口にすることはありませんでした。これでようやく酒をやめることができる。そう、安堵していたのですが……。アルコール依存症の本当の怖さは、まだ私には見えていなかったのです。(続く)

【まとめ:自分なりに重要だと思うこと】

  • 吐血をしたら、とにかくすぐに救急車を呼ぼう(自分の場合は少量だったので良かったが、大量出血の場合、そのまま意識を失い、最悪死に至ることもある)
  • その後知ったことだが、マロリーワイス症候群での吐血は、アルコール依存症者の場合は非常によくなる病気とのこと(実際、アルコール病棟に入院したら、自分もなったという人はけっこういた)
  • マロリーワイス症候群は消化器の病としては軽度の部類に入るとはいえ、自分にとっては少なくとも胃カメラでの手術を含め、非常に身体的に辛かった。二度と同じ経験はしたくない。しかし後述するように、それでも酒を完全に止めるきっかけにはなりえないのが、アルコール依存症の本当に怖いところである

アルコール依存症で初入院するまで(4):「連続飲酒」の突入と「離脱症状」の発現【発動編】

確かに睡眠薬の服用をやめ、アルコールだけを飲んでいれば、いつでも寝ることができるようになります。それでも自分の場合は、酒の飲み過ぎは避けようという考えだけはまだ残っていましたので、以前は「”一晩で”焼酎かウィスキーを1本720ml」だったところを、「”一日で”焼酎かウィスキーを1本720ml」といった具合で、飲む時間を引き伸ばす(血中アルコール濃度は薄める)方向へとシフトさせていきました。ですので、常に泥酔しているというよりは、常にほろ酔いの状態を引き伸ばす、という感覚に近かったといえます。

それでも、シラフの状態はほとんどゼロになっていきますので、いつ寝たのか、そもそも起きていると言えるのか分からないような状態へと突入していきます。これは「アル中あるある」ですが、それこそカーテンを閉めっぱなしで寝室で飲みだすようになるので、いま起きているのが朝の4時なのか、夕方の4時なのか、時計を見ただけでは全く分からなくなります。かつてはショートスリーパーで朝には短時間の睡眠で目覚めていたのに、気づいたら夕方近くだった、なんていうこともザラに起こるようになります。

もちろん仕事がありますので、平日から常にこんな状態になるわけではありません。私の場合であれば、最初は週末、つまり金曜の夜から月曜の朝までの間に、こうした連続飲酒のモードに入ることになります。金曜になると、「ようやくこれで気が済むまで酒が飲める」と思えて、心底ほっとします。週末は一歩も外に出たくないので、金曜には酒やつまみを買いだめをして、連続飲酒に備えるようになります。頭はすっかりアルコールでイカれているのですが、酒のためとなれば、まるで台風の到来にでも備えるかのように、計画的に動けるのです。

また私の場合は不衛生なことに、週末は風呂にもロクに入らなくなりました。自分でもさすがに匂いが気になるときは、シャワーをさっと浴びる程度で済ませてしまいます。この頃は、ファブリーズやボディペーパーをAmazonで買いだめし、愛用していました。2時間以内に商品を直送してくれるサービス「Amazon Prime Now」で焼酎を買っていたこともありましたが、酒を運んでくるまでの2時間すら待ちきれず、使わなくなったほどです。

こうしてしまいには、食事もほとんど要らなくなっていきます(というか、食欲が消え失せます)。私の場合は、せいぜいスナック菓子を食べる程度でした。理由は安くて軽くて捨てやすいから、それだけです。体重はどんどん減り、筋肉も減っていきました。平日も、まともな食事はほとんど喉を通らなくなりました。カップ麺のうどんや、コンビニのおにぎりばかりを食べていた記憶があります。駅の階段などを歩くときは、手すりを必ず掴んでいなければ不安で仕方がないほどに身体は衰弱し、椅子に座っていなければ電車の中で10分も立っていられなくないほどでした。

ともあれ日々はこんな感じで、特に週末はあっという間に時間が過ぎていきます。三連休などが来ると、もはや嬉しくて仕方がありません。GWや夏季休暇で長期休暇が取れるときなども、同じように連続飲酒でズブズブの状態でした。なぜなら、あっという間に時間が過ぎていくからです。逆に平日は本当に地獄でした。早く週末が来ればいい。浴びるほど酒を飲みたい。それしか考えなくなっていくのです。

おそらくこれを読む普通の方から見ると、「はたしてこんな状態で、いったい週末に何をしているのか。暇で仕方がないのではないか」と疑問に思うのではと思います。そのとおりです。実際私の場合は、酒をチビチビとやりながら、Amazon Prime VideoやNetflixといった月額定額動画サービスをダラダラと見るくらいしか、していませんでした。これ以上ないほどに、不健康で、非生産的な行為といえます。

しかし、アルコール依存症の人間にとっては、それで十分なのです。酒を飲んでいるだけで、何も面倒なことや鬱陶しいことは考える必要もなく、あっという間に時間が過ぎ去っていく。もはや日常も人生もどうでもよい。ただそれだけが至福の喜びであり、至上の価値なのです。もはや現世での価値などはどうでもよく、酒だけが生活のすべてとなり、自分のすべてを支配してしまう。――思い返すだに、アルコール依存症とは、本当に恐ろしい病だと思います。

ただし当然ながら、こうした状態のままで実際の社会生活が永遠に送れるわけではありません。私の場合、当然ながら一般的な会社務めの人間として、平日は仕事がありました(この記事を執筆している2018年12月現在は、退院後に復職しています)。ですので私は、上のような連続飲酒モードは週末などの休日だけにとどめ、平日はなんとか仕事をしていました。

それでも本当に、「なんとか」と表現するしかない状態です。自分も周囲もだましだまし、なんとか職場へ行くのですが、仕事もロクに手がつきません。具体的にいえば、当然思考力も落ちていますし、ありえないようなミスも連発し、キーボードすらまともに打てないときも出てきます。当然、自業自得にもかかわらず、そんな状態の自分自身に嫌気がさし、うつ状態も酷くなっていきます。

そしてこれも「アル中あるある」なのですが、月曜は休みがち(というか、週明けに起きたら月曜の夕方ということが起きるよう)になっていきます。仮病で有給を取ったり、直行・直帰のフリをしたりと、次々とサボタージュを重ねていくことになります。本当に社会人として、どうしようもないクズ人間になっていくのです。

それでも平日はというと、家を出る前になんとかシャワーを浴び、吐き気を抑えながら――ときには何も食べていないのに胃液だけを吐いて――家を出ていました。これはまた別のページでも触れますが、すでにこのとき私は1年近く、「連続飲酒」とともにアルコール依存症の典型的な症状である、強烈な「離脱症状」にも襲われていました(一般には「禁断症状」という言い方のほうがよく知られていますが、医学的には「ある物質が体内から抜けてくることで生じる現象」という意味で、「離脱」という言葉のほうを用いています)。

アルコールの離脱症状としては、いわゆる「手がプルプルと震える」といったものが有名です。しかし、私は手の震えを起こすことはなかったです(離脱は個人差が大きいといわれます)。私の場合、特に酷かったのは嘔吐感でした。離脱症状なので、アルコールを飲んでいない日中に特に酷く襲われます。嘔吐感というよりも、実際に何度も何度も嘔吐を繰り返していました。といっても、ロクに食べていないので吐くものもなく、最後のほうは飲んだ水すら吐き、最後は胃液だけでも吐いていましたが。

といっても面白いもので、この吐き気は、夜家に帰って酒を飲むと、ピタリと収まってしまうのです。というのもこの離脱症状というのは、血中アルコール濃度が下がると身体が「アルコールが足りていない」と判断し、その欠乏状態に対する”警告(アラート)”として生じるものだからです。アルコール依存症の怖いところは、まさにこの点にあります。連続飲酒によって酩酊が常態化することで、「酒が入っている状態こそが正常である」というホメオスタシス(生体恒常性)を維持する作用が働いてしまい、酒をやめたくても離脱を抑えるために酒にすがるしかなくなるのです。アルコールがどれだけ身体にとって毒物だと分かっていても、です。

だからこそ、こうした離脱症状の苦しみから解放されるのは、連続飲酒をできる週末なのであり、それが至福の時間となるのです。しかし、それでも平日は仕事もありますから、連続飲酒(朝から飲酒)は極力避けていました。その結果として、酷い離脱に襲われていましたが、当時の自分は「これは酒のせいではなく、胃腸炎か何かなのだ」と思いこみ、漢方薬などを飲んでやり過ごしていました。そして帰宅後は離脱を抑え、また眠るために、当然のように飲酒を行っていました。

ただし、大量飲酒はまずいとすでにわかっていますので、酒量をなんとか減らすために、たとえばウィスキーであれば「720mlのボトルを買ってしまうと、次の日余った分も飲んでしまう(飲みたくなってしまう)ので、あえて180mlのミニボトルを買う」「ストロングゼロを、3本だけ買って夜は外に出ない」といった、いまから思えば、本当にせせこましくて悲しくなるほどに”物理的”な「節酒の努力」を心がけていました(もちろん当時から、自分の意志だけでは酒をやめられず、わざわざこんなことまでをして酒を買わなければいけない自分に、本当に嫌気がさして泣いていました)。

上に書いたような状態は、ちょうど私が入院する前の2年間ほど、断続的に続いていました。そしてこの頃には、自分が完全に「アルコール依存症」であるということは、確実に自覚していました。そして肝機能が再び低下していることも、血液検査の結果から明らかでした。80まで下がっていたはずのγ-GTPは、2年足らずで再び200を超えていました。ですから当然、「このままではいけない」「なんとかこの状態から抜け出さないといけない」と頭の片隅ではわかっているのですが、最初にこの数字を見たときのような驚きや危機感はもうありません。「再び下げることができる」などと思っていたような気もしますが、もうその記憶もあやふやです。とにかく、もはや正常な判断はできなくなっていたわけです。文字通り、頭も心も体も、すみずみまで酒に捕まって抜け出すことができない状態だったといえます。

そしてこんな自分が入院をついに決意するようになったのには、ある決定的な出来事を迎えたからでした。(続く)

【まとめ:自分なりに重要だと思うこと】

  • 自分がアルコール依存症であるとはっきりと自覚したきっかけは、①(主に週末だけという断続的なものではあったが)「連続飲酒」への突入と、②(酒を飲んでいない時の)「離脱症状」の発生(および飲酒によってその症状がピタリと抑まることの確認)、この2点だった
  • しかし、以上の2点から「自分がアルコール依存症である」と自覚できたからといって、もはや時すでに遅しであった。ここまで来ると、自分の意志の力で酒を断つのは困難である。なぜなら、(個人差は大きいため一概にはいえないが)離脱症状の苦しみを抑えるための手っ取り早い方法は「飲酒」だからだ。その結果としてアルコールへの依存はますます進み、心身ともに健康を蝕んでいき、正常な判断もできなくなる
  • アルコール依存症が、しばしば「意志の力」ではどうすることもできない、コントロール不可能な病といわれるのはそのためでもある。つまり「連続飲酒が常態化する→体が酩酊を”通常モード”だと判断する(ホメオスタシス)→酒が抜けると離脱症状という形で様々な苦痛・不快感を与える→酒を飲むと収まる」という、抜け出すのが難しい強力なフィードバック・メカニズムが働くからだ

アルコール依存症で初入院するまで(3):睡眠薬の効き目の薄れと睡眠障害の始まり【没落編】

睡眠薬。それは私にとって、最初のうちは驚くほどよく効きました。人によっては、副作用なのか、それとも薬が効きすぎてしまうのか、「目覚めがよくない」「起きたあともフラついてしまう」などの症状が出てしまい、薬が合わない方もいるようです。しかし私の場合はそうしたこともなく、7〜8時間の熟睡のうち、きっぱりと目を醒ますことができました。

「お酒などに頼らなくても、こんなに眠ることができるのか!」お酒を飲み始めてから10数年、飲まなかった日なぞない、というくらい毎晩のように飲んでいた自分にとって、睡眠薬との出会いは、それこそ革命的な出来事でした。もっと早く、この存在と出会っていればよかったと思ったほどです。

しかし、そんな睡眠薬との蜜月の日々は、1年足らずでゆっくりと終わりを迎えていきます。これはあくまで私の場合のお話ですし、医学的な根拠があるわけではありませんが、あくまで休肝日を作るための「補助」の役割として睡眠薬を使用していたのが、よくなかったのだと思います。次第に私は、睡眠薬を飲まないと熟睡できない身体になっていきました。つまりお酒を飲むだけでは、なかなか眠りにつくことができなくなり、眠りも浅くなっていきました。

これはまずいと思い、まずはお医者さんに睡眠薬の処方量を増やしてもらいました。しかし今度は睡眠薬だけを飲んでも、以前ほどの熟睡感を得ることができなくなっていきました。おそらく、アルコール(アセトアルデヒド)が脳内に残っていたからだと思います。非常に強い睡眠薬のはずなのに、寝床についてから1時間経っても2時間経っても、一向に眠くならない。結局朝を迎えてしまい、コンビニに酒を買いに行く。そしてお酒をあおって寝る。そんな日がちらほらと増えていくようになりました。

ちなみに、睡眠導入剤とアルコールの併用、つまり両者を一緒に飲むことは、固く禁じられています。なぜならそれは双方の効果を非常に強め、より依存性を高めてしまうからだといいます。実際お医者さんにも、「アルコールと一緒に服用すると、自覚のない奇異な行動に走ったりするから、絶対に一緒に飲んではいけない」と念を押されていました。実際、自分が服用された薬名で検索すると、そのWikipediaにはまさにアルコールとの併用によって自殺した著名人の名前が記載されていたり、強力な昏睡作用をもたらすことから諸外国では「レイプ・ドラッグ」などと呼ばれ悪用され、すでに販売が禁じられていることなどを知りました。ですから自分も、もちろん最初はその禁忌を守っていました。とある国への海外出張のときは、きちんと別の薬を処方してもらったりもしました(その代用薬が全く効かず、眠れなくて辛い思いをしましたが……)。

しかし上のような状態が続いてしまうと、先程も述べたように「睡眠薬だけでは眠れない→仕方なく、睡眠薬が切れたと思うタイミングで酒に手を出してしまう」という場合も出てきます。あるいはその逆に、「お酒を飲んでも眠れない→仕方なく、お酒が薄まったと思うタイミングで睡眠薬を服用する」というケースも出てきます。

「完全な併用は絶対に避けなければ」と頭ではわかってはいても、だんだんその状態が近づいてきます。翌日、どうしても朝早くに避けられない用事があるときなどは、完全に両者を同時に服用した日もありました(※絶対に真似をしないでください!)。つまり、強いお酒で一気にグイッと睡眠薬も飲むわけです。そういうときは、確かにぐっすりとよく眠れます。実際には「昏睡」していたのでしょう。それは自分にとって「安心」でもあり、同時に「恐怖」でもありました。こんなことを続けていたら、絶対にいつかボロボロになってしまうという予感があったのです。

そうしたことが幾度も続いた結果、自分はこう考えるようになりました:「こんな怖い思いをするのであれば、もういっそのこと睡眠薬は一切やめて、お酒だけを飲むことにしよう」と。そう考える自分を後押ししたのは、「脂肪肝だって、酒量を自分でコントロールして、ちゃんと治せたじゃないか」という成功体験でした。しかしいま思えば、わずか1年程度「節酒」ができたくらいで、自分の考えは大変に甘かったといわざるを得ませんでした。

そしてこれが自分の場合、いわゆるアルコール依存症の典型的な症例の1つ、「連続飲酒」へとつながる重大な引き金となっていったのです。(続く)

【まとめ:自分なりに重要だと思うこと】

  • 個人差は大きいが、睡眠薬もまたアルコール同様に耐性がついていき、次第に効果は薄れていく。また、睡眠薬を飲まないと熟睡感が得られず、アルコールほどではないが睡眠薬それ自体への依存も進んでいく
  • 特に危険なのは、アルコールと睡眠薬の併用である(絶対にやってはならない)。これは互いの効き目を非常に強くするが、それゆえに、両者への依存を強めるきっかけともなる

アルコール依存症で初入院するまで(2):適度な運動と初めての睡眠薬【格闘編】

γ-GTPが200を超え、脂肪肝と診断された私は、まず適度な運動として、ジョギングやロードバイクでのサイクリング、ボルダリングなどを再開しました(30代のはじめ、自分は一度カロリー制限にハマって劇的な減量に成功し、そこからのリバウンドを防ぐためにこれらのスポーツに入れ込んでいた時期があったのでした)。

しかし、かつてのようにそれにもすぐに飽きてしまうと、もともと学生時代の趣味であった登山に没入するようになりました。登山であれば、コースも天候も眺望も、つまりは条件が毎回のように違いますから、飽き性の自分にはぴったりでした。さらに登山のいいところは、一度登り初めてしまえば、救難ヘリコプターでも呼ばれない限り途中で「もうやめた」というわけにはいきません。必ず歩いた分だけ大量のカロリーを消費し、達成感も日々のスポーツとは比べ物になりません(その分、山小屋や下山後に飲む酒もまた格別に美味しく感じられ、お酒自体を止めるきっかけには全くならなかったのですが……)。

#登山についてはまた改めて、お酒とは完全に切り離したライフワークとして、その魅力や素晴らしさについて紹介していきたいと思います。

さて、こうして適度な運動を始めた自分は、日々の酒量も減らし、毎晩のように飲み歩くのはやめるようになりました。また当然のことではありますが、朝や昼から平然と飲むような生活もきっぱりとやめるようになりました。しかし、酒を飲まないと寝られない体質にはすでになっていたため、不眠にはずいぶんと悩まされることになりました。

それまで酒を飲んでいるときは、寝付きこそ良かったのですが、睡眠時間が非常に短いという特徴がありました。たいてい1日3〜4時間の睡眠でも全然平気で、「自分はショートスリーパー体質なのかな」などと思っていたのですが、これはいま思えば完全に勘違いもいいところでした。単にアルコールを分解した毒物であるアセトアルデヒドが、睡眠の質を低下させ、眠りを浅くしていただけだったのです。

ですから休肝日のときは、とにかく寝ることができません。寝られないからついついスマホタブレットをいじってしまい、眠れない夜が続いてしまいます。寝たとしても数時間で、眠りも浅いので寝たという実感も得られません。

また「運動して適度に疲れれば、寝ることができる」とよくいいますが、自分の場合、あまりこれは当てはまりませんでした。とりわけ、登山のときは深刻です。当時、私は登山での宿泊には山小屋を利用していましたが、消灯時間と起床時間はとても早めになります(たいてい21時ころには就寝、朝5〜6時ころには起床)。ただでさえ普段と生活リズムが大きく違うのに加えて、登山で日中クタクタになるほど動いているにもかかわらず、全く眠気は訪れません。山小屋やテントで酒を浴びるように飲むわけにもいきませんし、(これはアルコール病棟でもよく聞かれる悩みですが)周りの登山者の多くがイビキをグーグーかいているのを聞きながら、数時間も寝られないのは非常に苦痛でした。当然眠りも浅く、そんなフラフラの状態で翌日も登山行動をしなければならないのは、純粋に安全上の危険も感じました。

そこで自分が人生で初めて手を出したのが、俗にいう睡眠薬睡眠導入剤)でした。自分の場合はそれまで精神科や心療内科にかかったことはなかったのですが、とにかく「睡眠だけが欲しい!」「ぐっすり寝たい!」という一心で、近場の心療内科に飛び入りました。ドアを空けた瞬間、「ここは心療内科ですけど……」と窓口の方に言われたのを、よく覚えています(そのときは藁をも掴む思いで入ったので、心療内科ではいきなり予約なしで診てくださることはない、ということを知らなかったのです)。ただこのときは幸いにも、「アルコールをかなり飲まないと寝られず、休肝日も作りたい」と不眠症で悩んでいることを率直に伝えたところ、かなり強い睡眠導入剤を処方いただくことができました。実際、初めてこの薬を飲んだときは、お酒を飲まなくてもここまで熟睡できるのかと、感動すら覚えました。

運動と睡眠薬。この2つを1年間ほど活用した結果、翌年の健康診断では、懸案だった γ-GTP 値は大幅に下がりました(といっても正常値の80ギリギリでしたが……)。腹部エコー検査でも「本当に脂肪肝と去年言われたんですか?」と担当の方に言われるほど、真っ白だった肝臓はクリアな状態に戻っていました(ところどころに脂肪の筋がわずかに残り、それがまるで銀河系の星々のように輝いて見えたのを、よく覚えています)。

しかしこの1年の「努力」は、いま振り返れば、自分にとってアルコールの克服どころか、むしろアルコール依存症への道を踏み出す一歩になってしまったと思います。というのも、「よし、自分はアルコールを独力で克服できた」などと思い上がってしまったのです。そして次第に自分は、「肝臓もすっかり回復したのだから」と慢心し、アルコールの量を次第に増やしていきました。

そしてアルコールと同じく、人間は睡眠薬にも耐性がつきます。私の場合、睡眠薬だけでは眠れなくなる日が来るまで、そう長い時間はかからなかったのです。(続く)

【まとめ:自分なりに重要だと思うこと】

  • 健康診断でγ-GTPで悪い数字が出ても、その数値自体は、(まだ脂肪肝の段階であれば)わりと節酒や適度な運動によりすぐに回復できてしまう。しかし、これで「肝臓がよくなったからまた飲める」と思ってしまうと、アルコール依存症への転落を早めることになる
  • 「お酒を飲まないと寝ることができない」というのは危険な状態。確かにアルコールは寝付きを良くしてくれるが、アセトアルデヒドは睡眠自体の質を下げている。その際、精神科・心療内科などで処方していただける睡眠薬睡眠導入剤)は、お酒を飲まないで就寝する「休肝日」を作るのに、有効な手立ての1つである。しかし、睡眠薬にも耐性はつく

アルコール依存症で初入院するまで(1):健康診断で γ-GTP が200を超えてから【覚醒編】

自分の場合、アルコールを飲み始めてから入院するまでのあいだ、約20年の月日が必要でした。アルコール依存症にいつなったのかは、正直にいってわかりません。ただ自分の場合、酒を恒常的に(つまり毎晩のように)飲み始めたのは大学生の頃からでした。酒への耐性も、遺伝的に人より強いほうでしたから、一晩で飲む量も多く、いわゆる「ほどほどの量(ビール中瓶で1〜2本)」程度で収まるなんてことは、滅多にありませんでした。たいていビールであれば500ml缶で最低でも3〜4本は飲んでいましたし、酷いときは焼酎や泡盛、ウィスキー1本720mlを、一人で空けてしまうこともザラでした。つまりは、「これくらいの量を15年から20年も飲み続けると、アルコール依存症になる可能性が高い」と言われるような飲み方を、ずっとしてきたわけです。そうしたら、本当に飲み始めて20年かそこらで、ちょうどアルコール依存症で入院したのでした。

ちなみに私の場合、「酒を飲むと暴れる」といった酒癖の悪さは幸いにしてありませんでしたが、酒を一定量飲みすぎると、酔いつぶれて寝てしまうタイプでした。そしてブラックアウト、つまり酒を飲んで気を失ってしまった経験は数えきれないほどあり、その意味では酒で周囲に迷惑はさんざんかけてきました。目覚めたら、どうやって家まで帰ってきたのか記憶がないこともしょっちゅうでしたし、起きたら大変なケガをしていたり、ケータイや財布をなくしたことも珍しいことではありませんでした。急性アルコール中毒で倒れて吐瀉したり、突然スリープモードに入ったかのように動かなくなって、病院へ緊急搬送されたことも2度ほどありました(ちなみにブラックアウトというのはPCでいえば突然電源をブツリと切ってしまう状態に近く、ニューラル・ネットワーク(脳神経)は確実にダメージを受けているそうです。それが結果として脳萎縮として現れ、アルコール性認知症などの症状にもつながっていくのだそうです)。

さて、そんな自分でしたが、30代の前半までは、そんな無茶苦茶な飲み方をしていても、健康診断ではいつも肝機能の数値には全く問題がなく、A判定をもらっていました。しいていえば、ビールを飲むので尿酸値が少し高いくらいのもので、「自分はやはり肝臓が強いのだ」くらいにしか思っていませんでした。

しかし、いつまでもそのような状態は続きません。肝臓は、確実にアルコールの分解でその機能を限界まで使い果たし、それが血液検査の結果に顕れるようになってくるからです。私が自分の酒の飲み方を改めようと思った最初のきっかけは、30代のちょうど中頃、アルコール好きならば知らぬものはいない、肝機能を表す γ-GTP (ガンマ・ジーティーピー) 値が200を超え、「ただちに病院にいって再検査を受けなさい」との診断結果が出たときでした。これを会社で受け取ったときは、本当にすぐさまGoogle Mapsで近くの消化器内科を検索し、ただちにエコー検査を受けました。診断結果は、アルコール性の脂肪肝。お医者さんに見せてもらった自分の肝臓の写真は、まるでフォアグラのように真っ白になっていました。

ただそのとき言われたのは、「いまの飲み方を続ければ、脂肪肝の次は肝炎、その次は肝硬変となり、最後は肝臓がんで20年で死にますよ」ということと、「いまより酒の量を半分以上に減らして、休肝日を週2日で設けてください。あとは適度な運動を」ということだけでした。そう聞いた自分は、「え? それだけでいいの?」というのが正直なところでした。何より、いまのまま飲んでいても20年も生きられるのか、ということのほうがショックというか、ラッキー&楽勝、という感覚でした。これは単に肝臓がとりわけ人間の臓器の中でも強力かつ肥大であり、「沈黙の臓器」と言われる特性を持っているからに過ぎないのですが、いま思えばずいぶんと甘い考えだったと、恥ずかしい思いでいっぱいです。

それはさておき、この数値が出たときというのは、健康診断前日の夜も酒を控えることなく、ばっちり焼酎を一瓶空けていましたし、確か診断当日の朝にも「迎え酒」を飲んでいた記憶すらあります。つまり平日だろうと休日だろうと、常に朝から酒を飲んでいたわけです。もちろん酒で仕事にも支障が出ていましたし、意識も明瞭ではなく、体調が悪化した状態(疲労感・倦怠感)も続き、さすがに自分でも「やっぱりか」と「このままではよくない」という思いもありました。この時点では、まだ自分がアルコール依存症だという明確な自覚はありませんでしたが、「酒にこのまま溺れてはまずい」「酒を飲むのではなく、酒に飲まれているような人生はまっぴらだ」という思いは強くありました。そこでこの診断書がきっかけとなって、ようやく人生で初めて、酒量を減らそうと思い立ったわけです。

ここから、自分なりに酒量を減らすための対策に、あれこれと取り組む日々が始まりました。(続く)

 

【まとめ:自分なりに重要だと思うこと】

  • 肝臓はそもそも内蔵として強い存在であり、”痛み”などの分かりやすいアラートを出してくれない「沈黙の臓器」。それゆえに、「自分は肝臓が強い」という自己認識は、アルコール依存症を自覚するための妨げとなる。否、むしろアルコール依存症への道をこじ開けてしまう
  • 「酒癖が悪いわけではない(自分はいわゆる”酒乱”ではない)」という自己認識は、酒で他人に迷惑をかけていないこととイコールではないし、ましてアルコール依存症かどうかとは無関係である(酒を人並み以上に飲んでいれば、必ずなんらかの迷惑はかけているし、依存症につながる)

アルコール依存症者の、アルコール依存症者による、アルコール依存症者のためのブログを、はじめました。

みなさま、はじめまして。このたび、「アルコール依存症アルコール中毒、アル中)」をテーマにしたブログを書き始めることにしました、philosobrates(フィロソブラテス) といいます(独自ドメインをとってWordPressで開始したのですが、しばらくはこちら、はてなブログでも同内容を並行して投稿してみることにします。そのうち、使い分けたり、はてなProに統合したりするかもしれませんが……)。

ブログ名は少し長いのですが、”A littele sophia, at least sobriety(わずかでも智を、せめて素 [シラフ] であれ)”という、いまの率直な思いをそのまま文章にしてみました。「sober(”sobriety=酒を飲んでいないシラフの状態”を維持した人)」としてアルコール依存症と終生向き合い、少しでもこの病から得た知を、同じ病で苦しむ人に届けたいという願いを込めてあります。

私は自己紹介にも書いたとおり、2018年秋、人生で初めて、「アルコール依存症」で約2ヶ月の入院生活を送りました。入院したのは首都圏近郊のとある精神科の病棟で、なかでもアルコール依存症の専門病棟、いわゆる「アル中病棟」です。

このブログは、その入院期間中から書こうと思っていました。アルコール依存症はしばしば「否認の病」であると言われるように、私も自らを「アルコール依存症」と認めて入院するまでには、長い格闘のプロセスが必要でした。その結果として、私は約2ヶ月の入院生活を経て、さまざまな人々と出会い、多くの出来事を経験し、そこから無数の得難い「学び」や「気づき」を得ることができました。このブログは、その入院中から書き溜めていたメモをもとに書きはじめています。

そしてなにより私は、このブログを、この病気と一生付き合っていくことになる私自身のために書きたいと思っています。もちろん入院生活それ自体も非常に重要な出来事であり、自分にとっての大きな人生の転機でしたが、むしろアルコール依存症者にとっては、退院後の断酒生活/人生(sober life)こそが「本番」です。このブログでも何度も触れていくことになると思いますが、アルコール依存症は現在の医学では、決して治すことのできない不治の病だからです。エイズやガンといった難病や、うつ病といった精神病を着実に克服しつつある21世紀現在の医療技術ですら、アルコール依存症の完全治療はいまだ不可能とされています。そんな「難病」だからこそ、私は入院生活や退院後の断酒生活を忘れずに何度も振り返り、今後一生にわたる断酒を誓った自分を縛り、監視し、記録しつづけるための場所として、ブログという手段を選びました。

またこのブログは、おそらく数ヶ月前の入院前の私と同じように、「自分はアルコール依存症かもしれない(いや、もう依存症なのはほぼ間違いないが、入院はしたくない)」「もうこれ以上アルコールには苦しめられたくないが、どうしても自分の力ではやめられない」という苦悩を抱えている方や、その家族にとっても有益なはずだと信じています。

というのも、Web上にはアルコール依存症に関する医療情報や診断チェックなどは多数存在していますが、アルコール依存症にかかった当事者目線からのまとまった情報や記録といったものは、病気の特性上もあり、あまりまだ見当たらないような気がします。それも当然のことでしょう。自分から、アルコール依存症であることを公に語るのは非常に勇気がいることです。インターネットというある程度の匿名性を確保してくれる場所であっても、この病と向き合い、その自分の姿を言葉の上だけでもさらけ出すのは、正直にいって非常にメンタル的にしんどいものがあります。

失踪日記2 アル中病棟
失踪日記2 アル中病棟
 

 また日本では、漫画家の吾妻ひでお氏による記念碑的力作『失踪日記2 アル中病棟』(イースト・プレス、2013年)のように、アルコール病棟とはいかなる場所であり、どのような人々が日々の入院生活を送っている場所なのかについて、非常に詳細かつ、わかりやすく紹介してくれているコミックも存在しています。しかし同書には、私見のかぎり少なからぬ問題もあると思います。それは次の2点です:

①「同書に描かれている時期は1998年末以降のものであり、本ブログが執筆されている2018年現在から20年前と、現在とは大きく変わっている部分が多数ある」

どんな書籍も時代の変化にもさらされるわけで、この1点目は仕方がないことだとしても、次の2点目はより重要だと私は考えています。それは次のようなものです。

②「同書は入院患者たちのキャラを立てた”ギャグ漫画”としてのテイストが強く、アルコール病棟に対する偏見を持たせてしまう可能性がある」

この2点において、同書は特に「アルコール依存症で入院するかどうか悩んでいる人」の場合、その内容を鵜呑みにするのは危険ですらある、と私は考えています。

もちろん、同書を読むべきではない、などとは言うつもりは毛頭ありません。未読の方は、むしろ今すぐにでも読むべきです。ただ、同書があまりにも緻密でわかりやすく、かつギャグ漫画として優れて「冷静に引いたカメラアイ」から描かれてしまっているがゆえに、「なんだ、アル中病棟とはこんなものなのか(これなら、入院しても意味なんてないじゃないか)」とわかった気になってしまう書籍だともいえます。

正直にいえば、少なくとも私自身がそうでした。アルコール依存症だと自覚を深めながら、何度も同書を読み返すたびに、「こんな場所なら、わざわ入院しても仕方がない」「何が悲しくて、こんなところに入院しなければならないのか。マンガで十分だ」と思ってしまう自分がいたのです。これは、自分にとっては明らかによくない影響だったと今は思っています(それでも、繰り返しますが、同書の価値が毀損することは決してありません。いいかえれば、同書はあまりにもよく描かれすぎているがゆえに、アル中の弱体化した自分の脳には事前に「効きすぎてしまった」のかもしれません)。

前置きがずいぶんと長くなってしまいました。改めていえば、本ブログではアルコール依存症の当事者の目線から、「アルコール依存症とは果たしてどのような病なのか?」「アル中病棟での入院生活とはどのようなものなのか?」「(『アル中病棟』ではあまり描かれていない)アル中病棟から退院した後の断酒生活とはどのようなものか?」といった点について書いていくことにしたいと思います。

特に最後の「退院後の断酒生活」については、まだ退院まもない私にとって、現在進行形で実行中の営みでもあり、答えが決して出るものではありませんし、アルコール依存症という「不治の病」にかかった人間にとっては、文字通り死ぬまでつきまとう難問です。しかし、絶対に解決不能アポリア、というわけでもありません。アルコール依存症から奇跡の回復を果たした人々も、この世界にはすでに多数存在しています。いま私は、そうした事実を、AAのような自助グループに足を運び、この目で見ることで、確かな現実として受け止めているまっ最中です。

私も願わくならば、そうした断酒者(Sober: ソーバー = “酒を飲まないで断酒している人”の意)の1人として、今後の人生を過ごしていきたいと思っています。酒におぼれていた数ヶ月前の自分からすれば、それだけでも全く考えられないような心境の変化です。この決意をゆめゆめ忘れぬよう、未来の自分に届けるように、ゆっくりと丁寧に、それこそライフワークのようにこのブログを末永く更新していければと考えています。それでは、よろしくお願いします。